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2018.06.29 【瀬戸内歴史探検隊】塩飽水軍の島を行く


せとうちのしおり #4



丸亀港(香川)からフェリーに乗って35分。
本島は、大小28の島々からなる塩飽諸島の中心の島。
戦国時代から江戸時代にかけて、巧みな操船と造船の技術で、豊臣秀吉、徳川家康に自治を認められた塩飽水軍の本拠地として知られた島です。


幕末に太平洋を渡った咸臨丸の乗組員として活躍したのも、塩飽の人たちだったそうです。
一説には「塩飽(しわく)」という名前は、激しい潮流を意味する「潮湧く」からきているとも言われています。


島内には、秀吉、家康から授かった朱印状など塩飽水軍の歴史を感じることができる「塩飽勤番所跡」や古い町並みが残る「笠島集落」をはじめ、瀬戸大橋の美しい眺めを楽しむことができる場所もたくさんあります。




本島泊港から集落の中を歩くこと10分。
歴史を感じさせる趣のある建物が見えてきます。
塩飽領を統治する役所として1798年(寛政10年)に設置された塩飽勤番所跡です。


塩飽諸島は、秀吉、家康の朱印状により、1250石の領地を与えられた650人の船方たちが治めてきました。
船方たちは大名に対して「人名(にんみょう)」、人名の代表者は「年寄(としより)」と呼ばれました。


年寄は名字を名乗り、刀を帯することを許されていたそうです。
勤番所と呼ばれる建物は、全国でも本島にしか残っていないそうで、1970年(昭和45年)に国の史跡に指定されました。


現在は歴史資料館として公開。
秀吉、家康の朱印状や、名奉行として知られた大岡越前守の漁業裁許書、咸臨丸の乗組員の遺品など、塩飽の歴史を感じることができる資料が展示されています。




塩飽勤番所跡で、塩飽の歴史に触れた後は、歴史的な建物が連なる「笠島町並み保存地区」へ。
江戸末期から昭和初期に建てられた100棟あまりの建物が続く町並みは、「塩飽大工」と呼ばれる名工たちによってつくられたものです。


漆喰塗りの白壁やなまこ壁、千本格子の出窓、虫籠(むしこ)窓など、随所に塩飽大工の技を見ることができます。


なまこ壁と2階造りの土蔵が特徴の商家「眞木(さなぎ)邸」は、江戸時代後期に建てられたもの。
地区内には「笠島まち並保存センター」があり、入場すると施設内の案内もしてくれます。


地区内には「マッチョ通り」というちょっと変わった名前のついた通りもあります。
「町通り」がなまったものだそうです。





笠島町並み保存地区では、笠島まち並保存センターとして活用される「眞木(さなぎ)邸」以外にも、「ふれあいの館」や江戸時代後期の建物で塩飽関係の文書や絵図などが展示されている文書館「藤井邸」などが公開されています。


築210年の古民家を改装した民宿もあります。
民家を古い町並みを歩いていると、それだけでまるでタイムスリップしたような気分になります。


笠島地区の建物が、豪華で堅牢な造りのものが多いのは、北前船などの水運の要所として栄えていたこと、船大工たちが船造りの技術を結集して建てたからだと言われています。




本島を歩いていて、民家の壁で見つけた大黒様。
「鏝絵(こてえ)」という細工で、左官職人が鏝で漆喰を盛り上げて着色した絵です。
土蔵や民家の装飾としてかつては身近なものだったとか。


同じ民家にはもうひとつ、おかめさんの鏝絵も残っています。
目には電球がはめ込まれているそうです。




この左官職人たちの技術をテーマにしたアートが本島にはあります。
「漆喰・鏝絵かんばんプロジェクト」(村尾かずこ)です。


本島に残る言い伝えや昔話を島の人から聞き取り、制作した作品が商店や民家の軒先など、島のあちこちに展示されています。
島がにぎわっていたころの様子を図案化したそうです。
虫送りやマラソン、塩飽の歴史や文化をモチーフにしたものや商店の看板などが、泊地区に7カ所あります。


ご紹介したほかにも本島には、瀬戸内海を見つめるように建つ大きな鳥居が美しい「木烏神社(こがらすじんじゃ)」、1862年(文久2年)築の芝居小屋「千歳座」、江戸時代末期築の二連式土蔵「夫婦倉」などの歴史的な見どころがたくさんあります。


瀬戸大橋を間近に眺めることができるのも、本島の魅力です。

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