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2018.10.26 女性ならではの所作で人形に命を吹きかける


せとうちのしおり#20



直島の和菓子に、「女文楽」という名前の最中(もなか)があります。
地元の老舗菓子店が、直島のお土産としてつくるお菓子の名前にまでなっている女文楽。直島の伝統芸能として根付いていることがわかります。


女文楽とは、女性たちだけでつくり上げる文楽のことで、直島の女文楽は香川県の無形文化財・有形民俗文化財・無形民俗文化財に指定されています。

女文楽の歴史をひもとくと江戸時代にさかのぼります。
天領地であった直島では、歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が許され、さかんに行われていました。
島内にある城山には歌舞伎舞台があり、島の有志による一座が誕生し、中国・四国のみならず、関西方面からも観客が訪れ公演を楽しんだといいます。
その頃、直島では淡路の人形芝居(文楽)が公演する機会がたびたびあり、直島の人たちの興味をそそりました。やがて人形を所持する家元が誕生するなど、文楽は熱を帯びていきました。


ところが明治6(1873)年、直島から阿波(徳島県)へ文楽の人形を買いに行った帰りに、小豆島沖で船が難破し、死者が出ました。その不幸な事件がきっかけで、直島の人たちによる文楽への関心は薄れてしまいます。




復活したのは昭和23(1948)年のこと。地域を盛り上げようと直島に住む4人の女性が中心となり人形芝居の稽古を開始、昭和24(1949)年には直島町敬老会で初公演を行いました。
ちょうど座員全員が女性ということから、全国的にもめずらしい直島女文楽の誕生となりました。


現在も伝統を受け継いでいる直島女文楽は、現在9人の人形遣いが在籍。
直島に暮らす50代〜80代の女性たちが、瀬戸内国際芸術祭2016にあわせて完成した「直島ホール」(三分一博志)に週に3回集まって稽古をしています。


その稽古の現場を訪ね、代表を務める小西シマ子(こにし・しまこ)さんに話を聞きました。




直島町の中でも、かつて女文楽に親しんでいたのは本村地区の人たちが中心でした。そのうち、人材不足などもあり宮浦地区の女性たちも参加することに。
小西シマ子さんもその一人でした。


「当時、働いていた私は、話には聞いていたものの、女文楽をきちんと鑑賞したことがありませんでした。でも、よく知らなかったからこそ女文楽に興味を持つことができたと思います。直島町役場で募集があったのを機に参加することにしました。当時の私は受験生の子どもがおり忙しかったのですが、練習は月に一度だけでしたから、カルチャースクールに通うような気持ちで参加していました」


座員全員が仕事や家事に忙しいため、時間をやりくりしながら稽古を続けていたそうです。




人形は、3人で1体を操り、中でも頭と右手を操る「頭(かしら)」は技術も体力も求められます。
「足10年、左手10年、頭10年」と言われるほど、一人前になるために時間をかけて鍛錬を重ねなければなりません。
一方で、だれが欠けてもいいように、普段の稽古では全員が手足頭を操れるように練習をしているそうです。


文楽は、人形遣いが頭に黒い頭巾をかぶり黒衣を着て演じます。
これは、黒は無であるという観念から発したものですが、文楽人形が巧みに動く様子をみた観客から人形遣いの顔が見たいとの声が上がり、顔を出して演じる「出遣い」が生まれました。


「あくまで人形が主役なので遣い手であるわたしたちは無表情を保ちながら人形の動きに集中します。女性だけの文楽という特徴をいかし、女性ならではの細やかな所作を表現していきたいと思います」




現在は島内に2人の太夫や3人の三味線の人材も誕生し、生演奏で演じられるようになりました。また、年に一度、大阪国立文楽劇場のプロの人形遣いから指導を受けています。
期待が高まる直島女文楽には、寄贈された文楽人形の頭が多くあります。それらの一部は、直島総合福祉センターに展示されています。


最後に小西さんはこう話してくれました。

「最近は、若い方のほかに外国人の方々も観に来てくださいます。直島女文楽を通して芸能が根付いていることを知っていただきたいですね。また、直島をはじめ県内を中心に年におよそ12回の公演を行っており、直島オリジナルの「えびす舞」など、さまざまな演目を公演してきました。瀬戸内国際芸術祭では2010から上演しており、次の上演を目指してがんばっています」。

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