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2019.01.25 ベネッセアートサイト直島の歩み


せとうちのしおり ♯32




日本だけではなく、海外からも多くの観光客が訪れる直島、豊島、そして犬島。それらの島は、なぜアートの島として知られるようになったのでしょうか。直島、豊島、犬島の3つの島で、アートや建築による地域振興を目指して活動をしている「ベネッセアートサイト直島(株式会社 ベネッセホールディングスと公益財団法人 福武財団による、アート活動の総称)」について、ベネッセハウスや家プロジェクトなどの運営を通じ、「Benesse=よく生きる」について考える場所と時間を提供する、株式会社直島文化村代表取締役社長、笠原良二さんにお話をうかがいました。





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ベネッセアートサイト直島は、1985年、瀬戸内海の島に世界中の子どもたちが集える場を作りたいとの思いを抱いていた福武書店(当時)の創業社長福武哲彦と、直島南部を健康的で文化的な観光地として開発したいとの夢を描いていた当時の直島町長三宅親連氏に出会ったことから始まりました。


ただ、その半年後に福武哲彦が亡くなり、「諦めなければならないのか」と思ったと、三宅町長に会うとよくお話しされていました。その後、ベネッセアートサイト直島の代表であり、瀬戸内国際芸術祭の総合プロデューサーでもある福武總一郎が受け継ぐことになるのですが、実はその時点ではまだ、この場所(現在ベネッセハウスなどがある、島の南部エリア)をどうするか決まってはいませんでした。この場所をどうするか考えることからスタートしたわけですね。


最初にできたのは直島国際キャンプ場ですが、これは、創業社長の思いであった子どもたちのキャンプ場をという思いから生まれました。飯ごう炊飯をするようなキャンプではなく、自然の中に身を置いて、ゆっくりと過ごし考える。都会の生活から少し離れて、瀬戸内の自然の中に身を置いてもらおうと。自然の中に身を置くとなると、建物というよりは、テントの布一枚のところに身を置く方がいいだろうと、世界のいろいろなテントを調査し、モンゴルのテントを持ってきました。直島国際キャンプ場と、名前に“国際”をつけているので、世界のいろいろな国籍の人たちが交流できたらという思いもあったのだと思います。85年に町長と創業社長が出会い、89年にキャンプ場ができた。それが起点となって、今に至っています。




ベネッセハウス
写真:山本糾


その後、1992年にベネッセハウスがオープンします。ベネッセの企業理念である〈Benesse=よく生きる〉を、事業から少し離れたところで考えたいと思いました。そのために必要なものとしてアートを選んだわけですが、他にもいろいろな方向があったでしょう。芸術にもさまざまなジャンルがあります。最終的には現代アートを選択しましたが、当時はまだまだ試行錯誤。


ベネッセハウス ミュージアムの第1回の展覧会は三宅一生さんでした。子どもたちの展覧会もしましたし、勅使河原宏さんもやっている。当時はまだ現代アートに絞りきれていなかった。文化芸術の中から私たちが何がいいのかを考えていくプロセスだったんだと思います。


現代アーティストは同じ時代を生きています。アーティストたちは、自分が感じたこと、伝えたいと思うことを作品を通じて、投げかけてきていますから、現代を生きる我々として何を受け止めるか、読み解き感じるか。そういうことを考えてもらうには、自然の中に身を置くだけでは足りないのではないかと。現代アートというメッセージの塊が置かれることで、考える手助けになると思ったのでしょう。この場所でメッセージの塊のような現代アートに触れ、何かプラスのものを持って帰って欲しいと。




草間彌生"南瓜"
写真:安斎重男


アート作品を選ぶ時、すでに作られた作品を購入する方法もありますが、私たちはこの場所にしかない、ここでしか体験できないようなものをどれだけ作っていくかということに思いを巡らせました。その作品をこの場所のどこに置くと一番いいのか、ここにしか展示できないようなものとは何なんだろうかと考えながら。


屋外作品もそうですが、ベネッセハウス館内においても、安藤忠雄さんが建築したこの空間に、いかに作品を一体化させるかを考えながら作りました。草間彌生さんの黄色いかぼちゃが置かれたのは、1994年。私たちの代表的な屋外彫刻作品のひとつになります。




家プロジェクト「角屋」
写真:上野則宏


ここにしかないものというのを考えた時、自然や風景もそうですが、そこに暮らしてきた人たちの歴史や、その場所が持つ歴史や文化もそうなんだと思います。ときどき、島の人たちが「この島には何もない」と言われることがあります。しかし、私たちが教科書で見る日本史の舞台にはなっていないけれど、人が暮らしてきた以上は、そこにはいろいろな歴史が実はあるんですよね。そういうものがここにしかないもののひとつになる。


そういうものをお客さんに伝えたいという思いで、集落の中、本村という場所で私たちはチャレンジを始めます。1998年にスタートした家プロジェクトです。民家と現代アートを融合させることで、地域のことも知ってほしいし、またそこに暮らす人々が、アートを通して住んでいる場所のことを再認識することもできる。自分たちが暮らす場所は美しい、大切にしなければならない。そういうことにつながるプロジェクトになったのではないかなと思っています。


特に家プロジェクトの「角屋」の話が持ち上がった当時、島の人たちの中には、空き家というのは古くて汚くて早く壊してしまおうと思っていた人が多かった。しかし、文化的に保護されるようなクラスの建物ではないかもしれないが、かつてはどこにでもあったものがだんだん少なくなっている中、逆に残っていること自体がおもしろい。昔ながらの島の暮らしや風景を大切にしながら、その道標の如く、また場合によっては少し意識してもらうきっかけとして現代アートがあるというような捉え方もあってもいいのかなと思っています。


現代アートがそこにあることで逆に意識が向かう。私もよく思うのですが、大竹伸朗さんの作品「はいしゃ」に潜望鏡がありますが、のぞくことで向こうに意識がいくというか。それをのぞいてその島の歴史など、いろんなことが見えるような気がします。レンズには集めてくる要素もある。そこに焦点を当てるというような。集落に家プロジェクトのようなものがあることで、その集落や建物が持つ歴史や文化に興味を持つ。アーティストなどは逆にそういうことを考え掘り起こして作品にしていくわけですから、そういうものと出会うことで、私たちも暮らす人も、再発見することができる。暮らしのそば、集落の中に作品が置かれることで、暮らしや歴史を掘り起こしたり、地元の人との接点のようなものが生まれる。家プロジェクトが1998年、瀬戸内国際芸術祭が2010年。 10年かけて瀬戸内国際芸術祭につなげていくことができたのではないかと思っています。




犬島精錬所美術館
写真:阿野太一


直島と並行して犬島のプロジェクトも動いていました。犬島は人口も約50人ほどと少ないですし、100年前の製錬所の跡地が廃墟のような形でそのまま残っているなど、いろいろな課題を持っている島です。瀬戸内海の島々には、光と影がある。島の皆さんが影の部分で苦労されてきたという事実もある。現在の島の姿を見るときに今の状態だけではなく、過去のいろいろな歴史をふまえて見ていただくことが必要です。


私たちが携わっているもうひとつの島、豊島もそうですね。直島では自然の中に身を置いて考えるというところからスタートしていますが、犬島や豊島は、さらに深くいろいろなことを考える意味があります。さまざまな島の人々が、次に進もう、がんばろうと思われている中、アートを通じて私たちにできることは何かを、直島からはじまり、犬島、豊島と展開する中で、常に考えてきました。


ベネッセアートサイト直島の活動も、瀬戸内国際芸術祭も、島から島へ船で渡るのがいいですね。すぐ隣の島なのに、違う文化や歴史を持っている。違う文化や歴史を持ち暮らしているということを理解することができる。実際に世界はそういうものですが、陸続きの中で暮らしているとそういうことを実感することもあまりありません。いろいろな島々を巡ることで、いろいろな気づきがあるし、光と影も含めて、考えることができるだろうと思います。




豊島美術館
写真:森川昇


ベネッセアートサイト直島の活動は、アーティストを指名し、その場にしかない作品を長い時間をかけてつくり、その中で「よく生きる」ということを考えていきます。これが「直島メソッド」と呼ばれるようになってきました。これとは違う形で、備讃瀬戸という広域でアートによって地域を変えることを目指したのが、瀬戸内国際芸術祭です。初めて開催されたのは2010年ですが、このプロジェクトの基本的な構想が始まったのが2004年頃です。2004年1月に当時内閣総理大臣だった小泉純一郎さんが豊島を訪れました。実はもともと直島にもいらっしゃる予定だったのが、いらっしゃらなかった。そこで福武總一郎が手紙を書いたんですね。すると官邸に来るようにと連絡があり、当時の首相秘書官であった丹呉泰健さんにお会いし、瀬戸内海の島々やアートをめぐる構想についてお話しました。その時に「全国都市再生モデル調査」に応募してはどうかとアドバイスをいただき、調査費がついたのです。その調査費で「瀬戸内アートネットワーク構想」というプランをつくったのがはじまりでした。


備讃瀬戸の島々の面積や人口、風土や経済活動、文化など現状をリサーチし、地域活性とアートを結びつけて提言しました。シンポジウムなども開き、広く発信にも努めました。結果的に、これがその後の瀬戸内国際芸術祭の気運を醸成する一役になったのではないかと思います。


一方で、福武總一郎は、2003年に北川フラムさんがディレクターを務める第2回「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」を訪れ、2006年の第3回大地の芸術祭からは総合プロデューサーを引き受けました。そのご縁から、北川フラムさんに瀬戸内国際芸術祭をやりたいので協力してほしいと頼んだのです。香川県庁の若手職員の人たちも大地の芸術祭を視察する中で、そういった芸術祭を瀬戸内海でやりたいという提案を当時の県知事に出していた時期でもあった。そして、2006年から準備をはじめ、2008年には、2010年に第1回の瀬戸内国際芸術祭を開催することが正式に決定されました。


都会から島に帰ってきた人が都会に暮らしていた時よりいい体験ができたとか、次の瀬戸内国際芸術祭までがんばろうとか。島の方からそういう声を聞くと、ベネッセアートサイト直島の活動や、3年ごとに開催される瀬戸内国際芸術際が島に暮らす人たちのひとつの道標になっているのかもしれない。直島に来た人たちが、直島っていいねと言ってくれることで、直島に暮らす人たちが直島のことをいいねと思う。そういうことのすべてが、島に暮らす人たちの誇りにつながっていると思います。

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