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2019.02.15 ままごとに、かくれんぼ。遊び場だった製錬所跡


せとうちのしおり#35




岡山市唯一の有人島、犬島。「ベネッセアートサイト直島」の活動拠点のひとつで、犬島精錬所美術館や犬島「家プロジェクト」があります。犬島精錬所美術館は、犬島に残る銅の製錬所の遺構を保存・再生した美術館です。
「在るものを活かし、無いものを創る」というコンセプトのもと、既存の煙突やカラミ煉瓦、太陽や地熱などの自然エネルギーを利用した、環境に負荷を与えない三分一博志氏の建築と、日本の近代化に警鐘をならした三島由紀夫をモチーフにした柳幸典氏の作品、また植物の力を利用した高度な水質浄化システムが導入されています。

犬島精錬所美術館ができる前の犬島の風景を探して、犬島へ。
安部寿之(あべとしゆき)さん、次田智惠子(つぎたちえこ)さん、池田栄(いけださかえ)さんにお話をうかがいました。





「私の子どもの頃は、銅の製錬所跡は遊び場。女の子はままごとしよった。煙突の中にはしごがあって、男の子は上まで登って、煙突の先から下に向かっておーいと叫びよったもんよ」。

次田智惠子さんは、1934 年生まれ。犬島精錬所美術館が開館したときから、館内でガイドをされています。遊び場だった製錬所跡。次田さんは裸足で走り回っていたそうです。

「カラミ煉瓦(※1)の上を裸足で走っとったから、カラミ煉瓦の特性を足の裏で知っとる。夏の煉瓦はじっと立っておれんほど熱かったし、冬は足袋を履いても冷たくて歩けんかった。鉄60%とガラス35%でできているカラミ煉瓦は熱の吸収と蓄熱を繰り返す。例えば 30 度以上の外気温で太陽の熱を吸収したら、煉瓦の中は 70 度以上。それが 5、6 時間は冷めん。反対に冬は氷みたいにもなる。そういうことをおばあちゃんは体得しとるんよ」。

※1 製錬時に排出されたスラグ(製錬カス)でつくられた煉瓦





犬島精錬所美術館では、機械によって空調や湿度を管理したり制御するのではなく、自然エネルギーが使われています。たとえば空調には、製錬所跡の煙突を再利用。煙突効果(※2)によって、夏は地熱を利用し冷やされた外気が、冬は美術館内のガラス屋根に注ぐ太陽熱の温室効果によって温められた空気が、気流により動く仕組みが用いられています。地熱を利用するために使われているのが、次田さんがその熱さと冷たさを体で覚えたカラミ煉瓦です。

※2 煙突内に外気より高温の空気があると、その空気が上昇。代わりに煙突下部の空気取り入れ口から外 部の冷たい空気が煙突に引き入れられ、室内に気流が生じる現象。




「精錬所美術館の煙突効果もシステムは知らんけど、7 つの子どもの時に煙突に入って遊んだから、体では知っとる。直径 3メートル、高さ 40 メートルの煙突が何本も立っとるでしょう。10 年だけ稼働して、手つかずで90年、煙突はそのまま。どんな煙突も下から空気を吸い上げる。煙突効果という言葉は知らんかったけど、吹き抜けの風はすごいというのは体得しとった」。

美術館に来た人たちに精錬所美術館の空気の流れやカラミ煉瓦の特性を、自分の思い出を交えながら説明する次田さん。ガイドの時にいつも持っているというノートや写真には、次田さんの手書きのメモがいっぱいです。なかには海外から訪れた人たちに少しでも伝わるようにと日本語を英語に訳したカタカナのメモも。
「せっかく遠くから来ているのに、煉瓦の特性や煙突の話を、きちんと話してあげないと申し訳ないじゃろ。遠くから来ていたら、何度も来れんしな」。





昔、犬島の砂浜は黒い砂でいっぱいだったそうです。黒い浜だから黒浜と呼んでいたとか。黒い砂の正体は、製錬時、1500度の溶液に水をかけた際にできるにカラミ砂(スラグ・製錬カス)。子どもの時の次田さんは、ここだけどうして真っ黒なんだろうと思っていたそうです。

「鉄とガラスでできた黒浜の砂は、終戦後、塩田によう売れた。瀬戸内の塩づくりは、入浜式塩田だったから、太陽の熱と風で、海水の水分を蒸発させて塩をつくる。カラミ煉瓦の素であるスラグは 70 度から熱が下がらんから、海水を早く乾かしてくれて塩が取れる回数が増えたんよな」。





製錬所跡のままごと。遊んでいたのは、荷置き場の小さな部屋でした。
「じゃんけんして勝った人から一番いい場所を選んだ。ままごとでは、標準語を使えんと遊べんかった『奥様、今日は朝から何をお食べになりましたか』とか、『これはお寿司です』と、平たい石に土を盛って、その辺にある花や葉っぱをのせてだしたりね」

犬島は、良質の花崗岩が産出される島としても知られています。子どもたちは好奇心から、島の南側、海水浴場近くにあった石切場にみんなで行っていたそうです。職人さんが石を採る様子を上からのぞいていて怒られたり、男の子たちは採石場から港まで石を運ぶために設置されたトロッコに乗って遊んで怒られたこともあったとか。

「製錬所跡がこのまま朽ちていくのは悲しい。活かして欲しいと思っとった。私が体得したことを話して、島のことや美術館のことを少しでも知ってもらえたらいいと思っています」





「1690(元禄3)年に、佐藤家と井上家の2つの家族が犬島にはじめて移住するのですが、その佐藤家が私の母の里なんです」
そう話してくれたのは、2008年の開館からチケットセンターのカフェスペースの厨房を担当する池田栄さん。カフェでだす犬島らしいメニューをスタッフのみなさんと一緒に考えたそうです。

「カフェで提供しているかぼちゃのおぜんざいは、昔から食べていましたよ。子どもの頃からかぼちゃとおそうめんが入っていました。昔はね。いまとは全然違って、食べるものが不自由だったんです。犬島はお米がつくれないでしょう。かぼちゃや芋、豆なんかはつくれるから。かぼちゃのおぜんざいは贅沢品でした。かぼちゃで甘みをつけてね。お団子だとドロドロになるけど、おそうめんだったら、湯がいておいておいたら食べる時に入れたらいい。親がいなくても子どもでもできるから、おそうめんになったんだと思います」

甘味のような感じで食べていたんですかとおたずねすると、「いえいえ。おぜんざいは主食でした。腹をふくらませるものでしたね。小豆島と行き来があったからおそうめんを入れていたんだと思います。昔は犬島と小豆島を結ぶ船がありました。岡山や牛窓、小豆島と犬島を結ぶ船があったんです」





池田さんも子どもの頃、製錬所跡地で遊んだそうです。
「入っちゃだめと言われたことはなかったですね。隠れる場所がいっぱいあったから、かくれんぼしたりね。小学校の同級生は、31人。いま犬島自然の家がある場所に、犬島小学校があったんです。建物はもっと大きかったですよ」
池田さんは、犬島の目と鼻の先にある犬ノ島に祀られている犬の形をした大きな石。犬島の名前の由来になったと言われている「犬石様」についても教えてくれました。
「犬ノ島には、毎年5月3日のお祭りの時だけ渡れます。お祭りの時はお芝居もあってね。楽しみでしたね。私が生まれる前ですけど、犬石様は採石のために、3回山から降ろされたんです。いまは北を向いているけど、降ろされるたびに西を向いたり、北を向いたり。
犬石様の向きが変わったそうです」





「製錬所跡が、あのままで崩れていく、朽ちるの寂しいと思っていました。煙突が何本も立っている、あの様子は日本にも少ない風景でしょう。少し異国の感じもします。誰かに見てもらいたいと思っていました。美術館ができたことで、海外からも人が来てくれる。誰も人が来ない島にんるのは寂しいです。人が来てくれる島はいいと思う。犬島のことをお話したり、島に来た人にいろいろなことを教えてもらったりすることが楽しいです。これからも犬島の魅力を伝えていこうと思います」





犬島で暮らして42年。犬島町内会会長の安部寿之さんも、犬島精錬所美術館や犬島「家プロジェクト」、そして作品を制作するアーティストたちのことを見守ってきたおひとりです。

「島に滞在して制作をするアーティストによっては、寒い時期に作品をつくる人がいます。12月半ばから翌年の1月いっぱいで作品を仕上げる。一番寒い時期に作品をつくるわけよね。一斗缶に穴を開けて火を炊いたりしたら、暖は取れるけど、そのそばにずっといるばかりでは仕事ができん。だから、どうせ一服する時間、休む時間はあるだろうから、そんな時にあったかいコーヒーでも持っていってやったらいいかなと。ただ、私の家から遠い場所の人には持っていってやれんけどな」。
コーヒーを持っていった時、作業の様子を見て、「今日は、少し進みよるな」と思うのだとか。でも、決して長々と話すことはしないと安部さん。


「私がそこに行って話をしたら、アーティストたちの手をとめることになるから。必要以上には関わらない。私が話したりして関わると、完成までの日程が決まっているのに、時間のロスをさせることになるだろう。私も職人だったから、わかるんよ。だから、余分なことを言うて、時間を無駄にさせるのはいかん。こっちが気を使ってやらないかん」。


職人時代の安部さんがそうだったように、アーティストたちも午前中15分、午後に15分休憩。安部さんは頃合いを見計らかって、「おーい、差し入れじゃ」と声をかける。安部さんの家のすぐ裏にある家プロジェクト「石職人の家跡」の作家、淺井裕介さんには、「すぐ裏じゃったから。温いんが入ったで。手を止めれるか。なら持って行ってやる」と、毎日差し入れたそうです。
そんな安部さんの心遣いに触れたアーティストたちは、作品が完成した後も、メンテナンスで島を再訪するたび、安部さんの元を訪れるそうです。


「必ずあいさつに来てくれるんよ。土産なんか持ってこんでもいいと言うんやけど、お世話になったからと持ってきてくれる。久しぶりに会うと、『今はどこどこで作品を作っている』とか、そんな話になる。帰っても、また来てくれる。1回切りではない、そういう人との出会い、つながりをつくってくれたんは、精錬所美術館かもしれんな。若いアーティストとの交流と言うか、出会いと言うか。年をとった者からしたら、若い人の話が聞けるのはいいこと。そして、若い人にとっても、私ら年上の話を聞くのはいいことやと思う。美術館や家プロジェクトが、いろいろな世代の人間が交流できる機会をつくってくれたんかもわからん。いろいろな出会いがあるから、元気でいられるんかもしれんな」。

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